日本食の基礎が出来上がったのはいつ?日本の食文化と歴史を解説!
目次
日本の食文化と歴史

みなさんは、現在の日本食の基礎が出来上がったのは、いつだか分かりますか?
狩猟採集生活をしていた縄文時代。稲作へと移行した弥生時代。仏教が流行って貴族の間でお肉を食べなくなった奈良時代など、時代の流れとともに日本の食文化はその形を変えていきました。
そして、現在の日本食の基礎が出来上がったのは、平安時代だと言われています。
食文化とは?

そもそも食文化とは何なのでしょうか。文字通り、食にまつわる文化ということは何となく分かりますよね。
具体的には、食材の選び方や調理法、食事作法やマナー、食事の頻度や食事の時刻など、国や地域、民族や宗教などにより異なる独自の決まりのことです。
また普段は何を食べるのか、特別な日には何を食べるのかなどの暦上の決まりも、国や地域、民族や宗教によって異なりますね。
現代ではそれぞれの食文化が混ざり合ったり、均一化の兆しも見られますが、伝統的な家庭料理や郷戸料理など、地域別の食文化も根強く残っています。
日本の食文化

日本には、仏教の普及により生まれた精進料理、平安時代の貴族の酒宴に出された大饗料理、安土桃山時代に登場した懐石料理、室町時代に確立されて江戸時代に発展した本膳料理などがあります。
本膳料理は汁+菜で構成されており、後の日本の食文化に大きな影響を与えました。その後、明治維新の文明開化に伴い、牛肉などを食べる食肉文化が流入するとともに、日本には西洋料理が浸透していき、洋食が誕生しました。
日本食の歴史

ここからは日本食の歴史を見ていきたいと思います。日本の食文化が時代の流れとともにどのように変わっていったのか、それぞれの時代の食文化をまとめてみました。
縄文時代の食文化
縄文時代は狩猟や漁猟、食物採集をして生活していました。現代では米が主食となっている日本ですが、縄文時代はまだ農耕が発達していませんでした。日本に稲作が伝来したのは縄文時代後期。稲作が主流となるのは弥生時代に入ってからです。
弥生時代の食文化
中国から伝来した稲作により、狩猟採集生活から農耕生活へと代わった弥生時代。稲作が日本全土に広がり、安定した食糧供給が行えるようになります。定住生活も可能となり、人口も増加しました。米の他に、稗、粟、小豆などの穀物も栽培されており、これらの穀物を雑炊にして食していたと言われています。
奈良時代の食文化
奈良時代になると中央集権国家となり、身分の差によって食べるものも異なりました。貴族階級は税として徴収した米を主食としていましたが、庶民は食べるための米がなく、稗や粟などの穀物を主食としていました。
また、この頃、貴族の間で仏教が流行り、675年に天武天皇が「殺生・肉食禁止令」を出したことにより、貴族の食事から肉が消えます。貴族は肉の代わりに蘇と呼ばれるチーズのような高級な乳製品を食べていました。
平安時代の食文化
平安時代になると貴族階級と庶民階級の生活の落差はますます顕著なものとなりますが、庶民の食生活自体は奈良時代とほぼ変わりません。その一方で、貴族の食事は味や栄養より見た目の美しさを尊重する形式的食生活へと変わっていきました。
特に儀式や接待用の食膳は、食品をいかに美しく盛り合わせるかが重視され、栄養や味覚よりも美の工夫に重きを置かれました。やがてこれが日常の食膳にも用いられるようになり、見た目の美しさも大切とする日本料理の礎となっています。
鎌倉時代・室町時代の食文化
鎌倉時代・室町時代になると武家の世となり、質素ながらも栄養価の高い食生活へと変化していきました。形式的な食事を重視し、仏教の影響を受けて肉食を禁止する貴族の食生活は不健康で受け入れられず、玄米食と獣肉を自由に食す風潮が広がっていったのです。
安土桃山時代の食文化
安土桃山時代になると様々な食物や料理法が外来し、茶の湯の流行に伴い、懐石料理が登場しました。懐石料理はお茶を楽しむ前に空腹を和らげるために出された食事で、お茶をもてなす主の趣味趣向が反映されたものでした。
懐石料理が新たな食事形式として誕生する前は、武家の正式な食事は貴族の伝統を継承した本膳料理でした。数多くの料理が決まった位置に置かれ、食べ方の手順も決まっている本膳料理と違い、懐石料理は質素で形式張らないものでした。
江戸時代の食文化
江戸時代になると農業と漁業が発展していきます。新田の開発や品種改良をはじめ、新しい漁場や漁法が開発されていき、収穫量も増大しました。調味料もそれまで主流だった塩、味噌、酢の他に、本格的に醤油が使われるようになります。
砂糖、昆布、鰹節も登場し、市場に流通していきました。農作物が増産されるようになり、下層の町民や農民も米が食べられるようになりましたが、常に食べられるわけでなく、米に雑穀や菜を混ぜ込んで炊いたものを食していたようです。
明治時代の食文化
幕末から明治初期には西洋料理が日本に浸透し始め、和洋折衷である洋食が誕生しました。上流階級や知識人を中心に洋食が普及しましたが、庶民の間ではまだ和食が大半でした。文明開化の象徴として「牛鍋」が流行したのもこの時代です。
明治中期になると西洋料理は日本風にアレンジされるようになり、作り方を紹介する料理雑誌も登場しますが、家庭では依然として普及せず、和食が中心でした。洋食は上中流階級や知識人の間で公的な場を中心としてさらに普及していきました。
明治後期になると一般家庭にも普及し始めます。ご飯のおかずとして、箸で食べることができる気楽な西洋料理として、また栄養的に優れているとして、徐々に普及していきます。ただし、その頻度はまだ少なく、たまに食べる程度でした。
大正以降の食文化
大正・昭和になると、明治時代に徐々に浸透していった洋食は、家庭料理というよりは外食として全国的に普及していき、大衆食堂などで食べる機会が増えていきました。
その後、日本の食文化は、第二次世界大戦、終戦後の食糧援助、そして高度経済成長を経て大きく変化し、現在浸透している形へ姿を変えていきました。
まとめ
日本の食文化と歴史をご紹介しました。毎日何気なく食べている食事もその背景や歴史を知ると味わい深いものになりますね。
伝統的な食材や調理法を用いて作られる和食。西洋料理をアレンジして作られた洋食。変化していく食文化は様々な料理を生み出し、私たちの食生活を豊かにしてくれています。